2001年(平成13年)10月20日号

No.157

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
横浜便り
水戸育児便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

お耳を拝借(26)

-悲 報

芹澤 かずこ

 

 「○子です。岩手の母が車にはねられて入院したと、祖母が知らせてきました。すぐ出かけたいのですが××さんがまだ・・・」
 11年前の10月8日、その年の5月に結婚したばかりの次男の嫁からの差し迫った声の電話でした。
 「メモを残してすぐ行きなさい、着いたら様子を知らせて頂戴」
 田舎のこととて自転車が足代わりと聞いていました。大したことでなければいいけれどと、別の件で電話をかけてきた妹としばらくお喋りをしてから、息子はまだかしらとダイヤルを回すと、プーッツ、プーッツという通話音。メモを見て田舎へ電話をしているのだろうと、勝手に決め込んで間を置いてかけなおすと、とうに出かけている筈の○子が出たのでビックリしました。
 何でも最寄りの駅まで行ったところ、新幹線も夜行も既になく、タクシーだと10万くらいかかるとのことで、所持金不足で断られ、仕方なく戻って来たとのこと。その上、病院に問い合わせたところ危篤状態だと言われたらしいのです。
 嫁の気持ちを思うと一刻も早く岩手に向かわせたくて、次男を待たずに誰かに運転を頼もうと、まず長男の所に電話をするも飲み会で留守。娘婿も外出中。妹の夫はどうだろう、よく金沢まで行くことだし・・・と、あれこれ思案しているところへ次男から電話が入りました。
 「岩手のお母さんダメだったらしいよ、今帰ってきたんだけど、ドアを開けた時に○子の悲鳴が聞えたんだ。とにかく、すぐ出かけるから・・・」
 零時を少し回っていました。新幹線の6時の始発を待つより車の方が速そうです。
 「気をつけて行きなさいよ」
 くどいくらい念押しをして電話を切りました。朝まで少し眠らなくてはと床に入りましたが、目が冴えて眠れません。起きて翌日の荷造りを始めました。
 喪服をカバンに詰めながら、ふと8月の末の私の叔父の葬儀の時に、○子が着ていた黒のワンピースが頭をよぎりました。
 「いいわね、とても感じがいいわ」
 小声で言う私に
 「お母さんに買ってもらったんだよ」
 と、次男も小声で告げました。
 何かの時に慌てないように…、どこの親も考えることは同じです。そんな親心が無性に悲しく思われました。
 嫁の○子は兄二人の末っ子として生まれ、県立の高校を経て東京の大学に進み、そのまま東京で出版社に就職して、親とは離れて暮らしていました。宅建主任の資格を取り、転職するまでの約2ヶ月、親元で過ごしながら教習所に通ったりしていたようで、その様子を知らせる手紙が次男のところへよく届いていました。
 結婚が決まって式の打ち合わせにご両親が上京された時も、仕事のあるお父さんを先に帰して母娘水入らずの何日かを楽しんだようで、その時は次男も遠慮していたようでした。
 結婚した年の夏休みに、二人して新婚旅行の土産を届けに岩手に出かけて行きました。東京育ちの息子は田舎の生活が珍しく、子供のようにトンボや蝉を追いかけ回したと楽しそうに話してくれました。そんな息子をあちらのお母さんは甲斐甲斐しく世話をして下さった様でした。
 末っ子同士の結婚なので、喧嘩だけはしないように、と心配していたと言うお母さん。息子は時に乱暴な物言いをすることもありますが、根はとても優しい子です。夫を亡くした時にも、とても細やかな心遣いを私にしてくれました。同じく20代で片親を失った悲しみを分かち合って、より絆を深めて行くだろうと思いました。
 米どころの岩手は秋が一番のどかな時。苅田に自然乾燥の稲穂がまるで蓑(みの)を着た狸のような形で居並んでいました。こんな静かなところで交通事故が起きるなど信じ難く、悪夢としか言いようがありませんでした。たくさんの思いをこの世に残しながら旅立とうとする人に、残されたものはなす術もなく、ただ無念の涙にくれるばかりでした。

野地画伯 筆



このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp