2001年(平成13年)9月20日号

No.156

銀座一丁目新聞

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横浜便り(22)

分須 朗子

−短い物語 「3人」 2−

  埠頭の海風の生暖かさが、心地悪く彼の素肌にしみ、ベイブリッジの夜景は、彼の目に無機質なものに映っている。
 あと数時間で、三十回目の誕生日を迎える彼は、今、とてもびっくりしていた。四年間つき合ってきた恋人に、別れを告げられたのだ。別れ話は、彼にとって、あまりにも慮外なことだった。彼は、彼女をとても大切に思っていた。
 「別れる理由が、僕には、まったく分からない」
 彼が言うと、彼女は答えた。
 「今のあなたに、別れる理由は一つもないわ」
 「それなら、何故?」
 「あなたをふりたかったの」
 「何だよ、それ?」
 彼女は、彼の目の奥をのぞいて言った。
 「私、あなたに、一度ふられたのよ」
 「いつ、僕が君をふったんだ?」
 「17の時よ」

 彼女は、17歳の時、一人の男の子を好きになった。彼女は、登下校の道すがらに見かける、その少年をとても好きだった。春夏秋冬がめぐり、ある日の放課後、彼女は思い切って、少年を呼び止めた。そして、「名前を教えてください」と言った。しかし、少年は彼女を一瞥すると、何も言わずに立ち去った。彼女の脇を冬の風が通り過ごし、彼女の頬に冷たく残った。彼女は、とても悲しい気持ちだった。本当は、彼女は、少年の名前を知っていた。

 「その少年が、あなたなのよ」
 彼女は、楽しそうに言う。だが、彼の記憶に、どうしても彼女の姿は浮かばない。彼は、別れ話を持ち出された時より一層びっくりしていた。と同時に、彼は、少なからずの憤りを覚えた。
 「この四年間、何で言わなかったんだ?だましたのか?」
 「だましたわけではないわ」
 「17歳の君を無視した僕をふるために、26歳の僕とつき合ったのか?仕返しか?」
 「それも違うわ。・・・ただ、言わなかったのは、センチメンタルな思いを口にしたくなかっただけ」
 黙る彼に、彼女は問いかけた。
 「感傷的であることと、執念の深さは関係あるのかしら?」

 四年前、26歳の二人が出会った時、彼女は、彼があの少年だということに気づいて、とても驚いた。さらに、彼女は、26歳の彼を、また好きになった。今度は、彼も、彼女を好きになった。二人の関係は、とてもうまくいっていた。時折、彼女は17歳の彼のことを思い出した。それは、彼女に、苦い情緒をもたらした。そして、彼女は、次第に、彼をふってみたいと考えるようになった。

 彼が、言った。
 「29歳の僕は、どうしたらいいんだ?」
 「どうすればいいか考えて。そして、私に教えて」
 彼は、考え始めた。彼女は、じっと考え込んでいる彼を見ていた。彼女は、彼をとても大切に思った。
 しばらくして、彼が彼女に問いかけた。
 「君がふりたいのは17歳の僕だろう?でも、今、君がふった男は29歳の僕なんだ。ところで、君は、29歳の僕がそんなに嫌いか?」
 「好きよ」
 先程までびっくりしていた彼は、今は、困っている。彼は、このような場合の彼女に対する、大変に厄介な気分をひた隠して、案を思いめぐらした。
 「17歳の僕のことは、26歳からの四年間の僕で消すことはできないだろうか?それ程に価値もない四年間だったのだろうか?」
 「帳消しです」
 そうは言ったものの、彼女の気持ちは納まり得ていない様子だった。
 ベイブリッジのイルミネーションが、白色から青色に変わり、六十分の経過を知らせている。鈍く重々しい時刻の点滅を踏みつぶすかのように、ふいに、彼は強く唱えた。
 「今、僕と、三度目に出会ったと思ってくれ。30歳の僕をまた好きになってくれ。明日から、またつき合ってくれ」
 彼女は、愉快そうに笑った。
 「私は、3人のあなたを好きになったのね」
 彼女の気持ちはすっかり納まったようだと、彼は確信した。

 「これは、立派な仕返しだ」
 心の中でつぶやいた彼は、
 「今夜の横浜港の夜景を、今すぐ返してくれ」
 と、ポツリこぼした。



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