2001年(平成13年)8月20日号

No.153

銀座一丁目新聞

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追悼録(68)

 作家の岩川 隆さんが亡くなった(7月15日)。享年68歳であった。この人はB C 級戦犯を語るとき、欠かせない、偉大な語り部であった。1995年6月、講談社から出した『孤島の土となるとも−B C 級戦犯裁判』は不朽の名著であるといっていい。25年に及ぶ取材と未発表の資料を駆使して、戦後50年に始めて、戦争と国家、個人の犯罪を糾弾した作品である。原稿にして1600枚、本のページ数にて830枚に及ぶ大著である。その飽くなき粘りづよさに頭がさがる。彼を駆り立てものは何か。
 あとがきにいう。「後世の人たちよ、いつか、誰かが明らかにしてくれと、死んでいった幾百の霊にたいしても申し訳ないという思いに駆られ、事実を事実として直視しようという覚悟と姿勢でここまで調べつづけてきた」
 この著書の最大の協力者は井上 忠男さん(故人)である。井上さんは陸軍中佐で、陸士40期生である。この期から2・26事件に2人が連座、一人は刑死、一人は自刃している。戦後、5人の陸将をだした。井上さんは終戦直後から復員事務や戦犯者との連絡事務にあたり、厚生省、法務省の一隅に席を置いて後半生をB C 級戦犯裁判に捧げた。岩川さんとともにアメリカの国立公文書館分館をたずね、段ボール箱に詰められた横浜裁判の記録を始めて目にした時、井上さんの真摯な情熱と責任感はいまだに忘れる事は出来ないと、生前、岩川さんは感謝している。
 同書によれば、巣鴨プリズン・ナンバー・ワンは長野の土屋辰雄さんである。新聞に戦犯として自分の名前が出ていると言って正直に自ら出頭した。そのまま巣鴨刑務所の独房に放り込まれた。土屋さんの罪状は俘虜収容所の衛兵として、俘虜にたいして故意且つ不法にも残忍非人道的且つ野蛮なる虐待を加え戦争法規ならびに慣習に違反したというものである。土屋さんの容疑はほとんど俘虜たちの誤解あるいは創作といってよいものであった。土屋さんは昭和20年12月27日、終身刑の判決をうけた。
 B C 級裁判はたまたま最初に被告にされた人たちに死刑や重刑が多い。まったく不幸なめぐり合わせと言うほかない。
 収容所にいれられた日本人戦犯たちに対する警備、看視役米軍の虐待は目にあまるものがあった。たとえば、グアム島に設けられた戦犯ストッケードはとりわけひどい。A 海軍中将(のち刑死)はやせ衰えた身体ながら電柱のまわりをコマのようにまわって走ることを命じられ、走っているうちについに倒れた。また、T 陸軍中将(のち刑死)はある看視がくるとかならず素っ裸にされ、礫の上で、背負い投げを食った時前方へ倒れる要領と横に倒れる要領とを数十回くりかえされるのがつねであった。
 岩川さんは被告たちが虐待を受けた原因の一つにこの地でとりあげられた「海軍生体解剖事件」と「人肉嗜食事件」の二つの非人道的でいわば猟奇的な事件があったためであるといっている。戦争における人間の狂気をまざまざと見る思いがする。さらにそこには罪を免れようとして、仲間を相手に売り、裏切るものが出るなど人間の醜さも明らかにされている。「こんなに密告や裏切りが多い国民を見たことがない」とは米軍調査官の指摘の一つである。もちろん、立派な態度で一身に責任を負い、悠揚として死についた人物も多かった。
 「日本人とは一体何者なのだ。日本人としての誇りはないのか」とは現代に生きる私たちの問題であると岩川さんはこの本で問うた。いまなお生きている課題である。

(柳 路夫)

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