2001年(平成13年)8月10日号

No.152

銀座一丁目新聞

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茶説

敗戦の日に思う

牧念人 悠々

 8月15日。戦前生まれの人であれば、この日、どこにいて何をしていたか、誰れといたのかよく覚えている。忘れる事の出来ない痛恨の敗戦の日である。その日、私は西富士演習場にいた。
 私たち陸士59期生の歩兵科の士官候補生は8月3日から2週間の予定で、卒業前の最後の野営演習中であった。本土決戦部隊の第一線にたつべく小隊訓練に明け暮れた。
 13日、挺身奇襲の終夜訓練があった。富士山麓に広がる樹海の中で、身をかがめ、時には匍匐前進し、敵陣に切り込む訓練である。私は小隊長で、指揮刀(サーベル)を下げていた。ところが、訓練が終わってみると、指揮刀がない。鞘だけあって、中味の刀がないのである。樹海を這いずり回っているうち、どこかでなくしてしまったのだ。武士の魂ともいうべき刀をなくすとは、なんとも情けない。指揮刀も武器である。武器の紛失は重営倉行きである。14日同期生と共に、樹海を探したが見つからなかった。15日も探しに行くはずであった・・・
 15日は朝から太陽がギラギラ照りつけた。正午に重大放送があるというので、演習隊本部前に、歩兵科士官候補生三個中隊500余名が整列した。放送は雑音が多くところどころしか聞こえなかった。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」を聞いて、敗戦を知った。自然に涙がでた。みんなも泣いた。声をあげる者もいた。
 徳川無声著「自伝.無声漫筆」によると、『朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み・…』生まれて始めて拝聴する天皇の御声だ。しかもその声に底知れぬ大いなる悲痛の秘められたる!足元の畳に、はっきりと音を立てて私の涙が落ちて行ったとある。
 泣いている私は、これで重営倉行きは免れたという思いもあった。国の重大事にこんな思いが出てくるのは、はしなくも利己心が顔をのぞかせたのか、生の執着が思わず出たのか。
 このことを今なお引きずっている。戦後、56年目にはじめて心のうちを告白する。
 時期は忘れたが、映画『海軍特別少年兵』(東宝映画・昭和47年公開、監督今井正)を見た。この少年兵は夜間演習中に腰につるした短剣を紛失し、探したが見つからず、自殺するというすじであった。
 身につまされて、涙がとめどなくでてきた。
 元毎日新聞社会部長、森正蔵著『旋風二十年』は書く。
 14日の御前会議で陛下は発言された。『朕が役にたつなら、なんでもしよう。マイクにも立とうし、詔書も出そう。詔書の起草をただちにかかるよう。原子爆弾による攻撃が三度、民草の上に来るかも知れぬ。ことは一瞬を争う。早急に処理せよ』夕刻には玉音の録音が早くも完成した。御聖断ついに下る。その夜、阿南は、官邸で、武人の最後を飾るにふさわしい自刃をとげた。

  大君の深き恵みにあみし身は
    言い遺すべき片言もなし

 阿南の辞世である。遺言には『一死以って、大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつゝ』とのみあった。阿南惟幾は最後の陸軍大臣であった。部下から慕われた徳将であった。

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