2001年(平成13年)6月1日号

No.145

銀座一丁目新聞

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茶説

裁判官の逮捕に思う

牧念人 悠々

 ああ青葉 ああ青葉かな 老いの恋  悠々

 性のあこがれは、男であれ、女であれ灰になるときまであるようである。男と女の結びつきは千差万別である。時には罪におちいり、罪に走る。どうも職業、年齢を問わない。女に臆病な男でも、「伝言サービス」「出会いサイト」とたやすく交際を求め得る場が用意されている。性はきまぐれで麻薬みたいなもの。その甘美に我を忘れる。人間は愚かしくその誘惑にまけてしまう。しかも、ここに落とし穴がある。誰にもわからないであろうと高をくくっていると、意外なところからバレてしまう。だから、「ひとりを慎め」と古人は戒めたのである。
 少女を相手にして捕まった高裁判事(43)を責める気にはなれない。その動機を「生来気弱で刑事裁判をすることがプレシャーになっていた」といっているという。人間らしいではないか。「人を裁く人が…」と言うのはやさしい。そういう人の方が圧倒的に多いであろう。悲しい人間のさがの前に、思わず「浮気は神の過失である」という言葉が出る。
 40年前であれば、このような事件はまず表沙汰にならなかった。すいもあまいも知った警察署長が「武士の情け」をみせる。捕まえても裁判官に自発的に辞任をすすめ未発表とする。最も弾劾裁判所があるのでやめたくてもそうかんたんにはやめられない。だいたい事件を摘発した蒲田署にはまず察回りは顔をみせない。いまどき警察署を丹念に回る新聞記者などはいない。昔は馬鹿正直にそうした記者がいたものである。
 いまは警視庁の広報活動が行き届いている。骨っぽい幹部がいなくなったから「隠すと何を言われるかわからない」と何でも発表しがちである。
 逮捕自体判事の輝かしい人生の終わりを意味する。本人は十分反省しているはずであり、改悛の情顕著であれば、マスコミにまで知らせる必要はあるまいと思うのだが・・・
 人には器量というものがある。その器の中で右往左往しているだけである。挫折はその器を広げる良い機会である。捨てる神あれば、拾う神あり。めげることはない。生きる望みさへあれば、出直しはきく。
 最後に聖書の言葉を引用する。
 「その罪を隠す者は栄ゆることなし。されどいいあらわして、これを離るる者は、哀れみを受けん」(箴言28・13)

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