2001年(平成13年)5月10日号

No.143

銀座一丁目新聞

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追悼録(58)

 小諸に6年間住んだ詩人・作家の島崎 藤村(1872−1943)は「小諸なる古城のほとり」でうたう。人は人生の寂寥を詠んだ絶唱という。私はまた別な感慨を持つ。

  暮れ行けば浅間もみえず
  歌哀し 佐久の草笛

 一時期、朝な夕なに北に浅間山(2568メートル)南に蓼科山(2533メートル)を見て過ごした。昭和20年6月から8月にかけて、陸軍士官学校59期生の地上兵科は長野県佐久地方に長期演習の目的で分営したからである。歩兵は、春日、協和、南御牧国民学校。砲兵は、横鳥国民学校。工兵は三都知国民学校。通信兵は蓼科農学校。輜重兵は芦田国民学校をそれぞれ借り住まいとしたのである。この地で兵学の実習と演習と現地自活作業に明け暮れた。小諸の西南の方向にあたり、人情の温かい農村地帯であった。
 うたう歌は常に軍歌であった。士気を鼓舞し、迫り来る決戦への英気を養った。

  千曲川いざよふ波の
  岸近き宿にのぼりつ

 現地戦術を教わった。連隊の防御作戦である。敵は千曲川をはさんで前面に布陣する。これに対して歩兵大隊、砲兵大隊、挺身奇襲部隊などをどう運用するか、「連隊長の決心いかん」と問われる。地図をみて小高い丘三箇所に砲兵を配置して迎え撃つ答案をだした同期生がいた。これが教官の原案に近い答えであった。どんな答案をだしたか記憶にない。
夜間、斥候に出され同期生3人が道に迷い、農家の人に尋ねたところ「後で案内させますから何か食べてゆきなさい」といわれて、イチゴをいっぱいご馳走になり、その家の娘さんに案内されて中隊まで帰ってきた。区隊長から「遅すぎる」と大目玉を食らったのはいうまでもない。

  濁り酒濁れる飲みて
  草枕しばし慰む

 戦争末期で食糧事情は悪かった。高粱が多かった。演習中に桑の実を、つつじの花を食べた。消化剤の「わかもと」を買って空腹をしのいだものもいる。
 毎年5月、長野県の浅科村八幡の権現山にある「遥拝所跡」で私たちは観桜会をかねた碑前祭を開く。このあとの懇親会で昔話で同期生たちの話の花が咲く。
 今年は5月8日12時から開かれ、30数名の同期生と4名の副官が集った。所司 慎吉君(医者、船舶兵)は車椅子で参加、みんなを感激させた。
遥拝所跡というのは、南御牧国民学校にいた歩兵の本科15、16中隊の候補生たちが毎朝、東方に向かって皇居を遥拝し、父母に挨拶の後、勅諭を奉読していたところ。ここに「皇居遥拝跡の碑」が建っている。これは南御牧村(現浅科村)の村長であった依田 英房さん(昭和43年9月、死去、88歳)が昭和41年、私財を投じて、自分の土地に作られたもので、碑銘は荒木貞夫大将の筆になるもの。依田さんは日露戦争のとき、近衛騎兵として軍籍にあった。村にきた59期生を心から歓迎してくれた。
依田さんは戦後、士官学校生徒の殉皇の姿を世に伝えることによって日本再建の糧とし青少年への訓えにしようと決意され、碑の建設を思い立ったものであった。跡を継がれた息子さんの一夫さんも59期生の面倒を見ていただいたが、昨年11月、急逝された。
 この権現山には59期生の発意で11種類100本の櫻が植えられてある。また、天竜川の河原から運んできた石で作られた「依田翁を顕彰する碑」も立てられている。いずれも同期生の元林野庁長官、秋山 智英君の努力に負うところが大きい。
 この地は同期生の心のふるさととも言うべきところである。この地に立つと、私は生徒隊長、八野井 宏大佐(陸士35期)の言葉を思い出す。

 一つ、士官候補生の矜持を持ち、やせ我慢を行うべし
 二つ、役に立たぬ不平不満を言うべからず

 この言葉は戦後生きてゆく上で大いに役に立った。

(柳 路夫)

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