2001年(平成13年)3月10日号

No.137

銀座一丁目新聞

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追悼録(52)

 ジャーナリスト工藤 雪枝さんの「特攻」の話を聞いた(3月6日、同台経済懇話会の研究会)。
 35歳の女性が特攻に理解を持ち、書いたり、語ったりするのは心強い。56期、57期の航空士官学校へ進んだ先輩たちの多くが特攻で散華している。会場にはその生き残りの人たちも出席していた。
 毎日新聞西部本社代表時代、鹿児島を訪れるたびに、陸軍特攻の基地、知覧を訪ねた。現に特攻隊戦没者慰霊平和記念協会の会員であり、毎月、会報「特攻」が送られてくる。必ず目を通す。
 「特攻」2月号の巻頭言には「慰霊とは何か−特攻散華した英霊に応える途-」を論じている。それによると、一命を捨てて日本の国土、親兄弟、同胞を守ろうとしたのが特攻隊員の心であった。しかも、体当たりして敵艦を沈めたからといって直ちに戦勝につながり、国土、国民が守れるとは信じていなかった。そこには後に続く者を信じる気持ちがあった。だからこそ死に向かって突進できたのであるとある。
 特攻は飛び立つことが死を意味した。私は身ぶるし、頭を下げるだけである。昭和19年2月、陸軍予科士官学校の兵科志望の時、「大東亜戦争は補給戦なり」といって輜重兵を志望した。日ごろ、温厚な51期の区隊長から「いまは航空決戦の時だ」とひどく叱責された。書き直して第一 航空 第二 歩兵 第三 輜重とした。結局、歩兵に進んだが、同期生の吉田 昇君(航空)から「貴様は軟弱だ」と切磋琢磨された。戦後、吉田君とは語る機会もなく、彼は死んでしまった。
 特攻の生みの親は海軍の大西 瀧治郎中将(海兵40期)である。その大西中将は「特攻は統率の外道である」といっている。あえて統率の外道をとらざるをえなかったのは末期的な戦況にもよるが、日本の将来をみすえた思慮もあったようにうかがえる。「神風特攻隊が出て、しかも万一負けたとしても日本は亡国にならない。これが出ないで負ければ真の亡国となる」(「特攻」2月号より)という言葉を残している。
 特攻作戦には批判がないではない。桑原 嶽さん(陸士52期)はその著「市ヶ谷台に学んだ人々」(文京出版)の57期の章で書いている。特攻は米軍に多大な恐怖心を与えたのは事実だが、特攻機は目標に到達前に撃ち落されほとんど成果を上げることができなかった。その現実を知りながら、特攻作戦を継続していった責任は重大であると批判する。
 資料によれば、特攻機による戦死者は海軍2,520余人、陸軍1,015人、特攻機の総数は2,392機。米軍に与えた損害は沈没16隻、損傷艦、正規空母4隻を含めて185隻であった。
 大西中将は敗戦の8月16日、特攻の英霊に謝して自決、5通の遺書を残したといわれる。一般青壮年にも遺書がある。「我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誠ともなれば幸いなり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ、諸氏は国の宝なり。平時に処し、猶よく特攻精神を堅持し日本民族と福祉と世界人類の平和のため最善を尽くせよ」(秋永 芳郎著「海軍中将大西 瀧治郎」光人社NP文庫より)
 工藤 雪枝さんは、国を守り、公に尽くすことを忘れ、権利や自由のみを主張する若者たちに「神風特攻から五十余年、君、国を背負う覚悟ありや」と問う。

(柳 路夫)

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