2001年(平成13年)3月10日号

No.137

銀座一丁目新聞

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お耳を拝借(6)

-ふるさと

芹澤 かずこ

 

 東京で生まれて、東京で育った私には“故郷”と呼べるものがありません。僅かに“田舎の味”を満喫できたのは、1945年の3月から空襲の激しい東京を逃れて、父方の祖父母の実家がある静岡県の在へ疎開をした時でした。旧東海道の松原という、松並木に面した一軒家を借り受け、祖母と(祖父は戦前に亡くなっていました)、夫を戦地に送り出した叔母と、まだ小さい従妹と私の4人がその家で暮らし始めました。
 東京から仕送りがあっても、お金で総てが賄えるわけではなく、都会育ちの叔母が慣れない畑仕事を手伝って、野菜を分けてもらったり、田舎の付き合いなどで苦労したようです。
 けれどもまだ小学生だった私は、疎開っ子だからといじめられることもなく、土地の子らに交じって埃っぽい田舎の道を駆けまわり、畑や田圃(たんぼ)で“いなご”や“たにし”を取ったり、みかん山のまだ青いみかんの木の下で遊んで、白い洋服に黄色いシミをつけたり、およそ戦争とはかけ離れた生活を楽しんでいました。
ところがある夜、この静かな村に時ならぬ爆音がとどろき、みな裸足で外に飛び出しました。でも闇の中には何も見えず、何も聞こえず、近くで異変が起きた気配すらありません。でも何かあったには違いなく、不安な気持ちで床につきました。
 次の日、昨夜の爆音の正体は、爆弾の投下らしいと耳にした子供たちは、怖いもの見たさでもう駆け出していました。松原から1キロほど離れた道路の真ん中が、まるでえぐられたように大きく陥没していましたが、周囲には何もない所なので、間違って落としたのではないか、と噂し合いながらも、戦争がもはや他人事ではない不安が、誰の胸にも広がったようでした。
そして、その日を境に毎日のように、東に向けて帯をなして飛んで行く、B29の鉛色の物体を目の当たりにするにつけ、戦火の東京に残っている両親や、小さい叔母のことが気にかかり、特に風の強い日など、ざわざわと鳴る松風に余計不安が募って、寝付かれない夜を過ごしたものでした。

 戦争が終って、多少世の中が落ち着いてから、8月の旧盆に墓参りに帰る祖母のお供をしたり、代理で行く母について何度か、かの地を訪れました。まだ焼津からのバスの便もなく、一里(4キロ)の道のりを歩くか、ハイヤーを仕立てるか、のどちらかでした。母と出掛ける時はハイヤーでしたが、祖母は車酔いがするからと歩くのです。
 トウモロコシや桃をかじりながら、道端のれんげを摘み、蝶やトンボを追いかけ、小川に笹舟を浮かべたりしながら、一里の道のりを2時間くらいかけて、ゆっくりと歩きます。
 すこしづつ暮れなずむ空に一番星が光り、小川や田圃に蛍が飛び交い、蛙がコーラスを始めるころ、ようやく目的の松並木が見えてきます。その松並木の外れを左に折れると、祖母の生家に続く道があり、まっすぐ川を渡ると祖父の生家です。
 この祖父の生家で、初めて五右衛門風呂に入った時のことを、50年も経った今でも、まるで昨日のことのように思い出します。五右衛門風呂と言うのは、あの大泥棒の石川五右衛門が釜茹でになったという由来から付いた名前で、風呂桶の底がじかに炊き釜になっていて、入った時に足が熱くないように、“すのこ”のような板が備えてあり、湯の中に浮いています。
 この板に体を乗せて、その重みで下へ沈むようにするのですが、これがなかなか口で言うほど上手くゆきません。体が少しでも片寄ると、片側の板が浮き上がり、バランスの取り方が甚だ難しいのです。とてもとても、ゆっくりとお湯につかる気分ではなく、ほうほうの体で退散しました。

 祖母はお盆の墓参りのほかにも、法事などによく里帰りをしていました。祖父と結婚して東京での生活の方がずっと長いのに、やはり兄弟や親族の多い故郷が懐かしかったのでしょうか。いつでも帰れる“心の拠り所”がある祖母をとても羨ましく思ったものです。



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