2000年(平成12年)12月10日号

No.128

銀座一丁目新聞

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追悼録(43)

 毎日新聞の政治部長もつとめた金野 宗次さんが今年の10月25日、肺炎のため死去した。享年77歳であった。
 訃報をみたのは26日の夕刊であった。27日福岡で葬儀があるというので、慌てて予約をとり、翌朝の福岡便で出かけ、告別式に参列した。
 2年先輩の金野さんとのつきあいは論説委員時代の昭和44年からはじまる。担当は金野さんが政治、私が社会だったが何故かうまが合い、親しくなった。しかも、時期はことなるが、ともに困難な時、後輩の後を引き受けて、50歳の年齢で論説委員から政治部長、社会部長にそれぞれ就いたことがある。激しい報道の職場で相手と戦いながらそれなりの実績をあげた。そのことをお互いに語らなくとも認め合う記者同士の連帯感が二人を結びつけたように思う。
 金野さんが政治部長となったのは昭和47年。外務省機密漏洩事件の後始末をつけるためであった。見事その責を果たした。また、日中国交正常化が進む中、閉鎖を余儀なくされている北京支局を正常に戻す仕事もあった。これも長い政治部時代にきずいた人脈を使って解決した。
 金野さんの晴れ舞台は昭和48年8月、日中平和友好条約の調印式である。百名をこえる日本の報道陣の団長となり、一行をしっかりとたばねるとともに自らも取材、報道し紙面を飾った。そういえば、このときの話になると、「中国では団長と団員では待遇がけた違いだよ。オレには車つきで最上のもてなしを受けた」と嬉しいそうであった。
 昭和50年毎日を繰り上げ定年退職してからトヨダのディーラーとして福岡に居を構えた。辞める理由を聞いたら「やるべきことやった。このあたりが潮時だと思う」と答えた。まことに欲がなく淡白である。
 私も昭和56年から7年半北九州市にいたこともあって交際はつづいた.この間奥さんの輝代さんのすすめで山口市で、武原はんさんの地唄舞の公演を開き、大成功をおさめ、面目をほどこしたことがある。長女有紀子さん、長男誠さんの結婚披露宴にそれぞれ招待され、毎日新聞の代表みたいな格好で出席した。私のような人づきあいの悪い、無粋な男をえらんだのかよくわからない。
 水魚の交わりとでもいうのであろうか。

(柳 路夫)

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