2000年(平成12年)10月10日号

No.122

銀座一丁目新聞

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茶説

話のわかる人が少なくなった

牧念人 悠々

 杓子定規に処理するかと思うと、定められた基本を守らず、事故、事件を起こす。それが後をたたない。世紀末の気にかかる世相の一面である。
 先日、小倉にゆく「のぞみ」の中でくだらない電光ニュースを見た。ある県警の交通機動隊の二人が捜査に行くといって、私服に着替え、車券を買いにいったので、処分を受けたというのである。
 何故、これがニュースになるのか。編集者の感覚を疑う。多くのサラリーマンがやっていることではないか。警官も人の子、めくじらたてるな。
 どこでも犯罪が起こり、その芽が隠れている街頭、競輪場を警官がぶらつくのは職務ですらある。もし、競輪場でスリを発見、捕まえたら、殊勲である。新聞記者も街をぶらつき、ネタを拾う。それと同じことである。「捜査にゆく」がウソであってもこれぐらいは許容範囲であろう。内部処分としても「以後気をつけよ」ですむ話である。このような些細な事柄を外部に発表する必要はない。クビを傾げざるをえない。
 新聞社の編集委員が立ち小便をして警察に捕まった。罪名は「公然わいせつ物陳列罪」。いささか酒に酔い、用をたしているところを、女性に通報され、かけつけた警察官に暴言を吐いたらしい。二、三十年前なら、警視庁クラブのキャプが所轄署に赴き、頭を下げて、身柄を引き受けて決着となった。それが10日間の拘留がついた。おかしいなと思っていたら、不起訴処分となった。冷静に考えれば、拘留をつける事件ではない。ものの軽重の判断がつかず、責任を持って処理する人物がいなかったからであろう。

 あえて編集委員にもの申せば、小用はトイレを使うのが紳士のたしなみであると言いたい。どうも話のわかる人物がすくなくなったようである。
 話がわかるというのは、事情、状況を判断して責任をもって処置を決めることである。物事の軽重、優先順位がわかり、どうでもよいことと大切なこととの区別がつき、処置したことには責任をもつ。人一倍愛情ある人でもある。そのような人を話のわかる人というのである。
 いまの世は無責任、責任逃れ、指示待ち、他人任せな人間が多くなった。世のなかの出来事はそのままその時代を生きる人間の姿を映し出しているといっていいだろう。

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