2000年(平成12年)8月20日号

No.117

銀座一丁目新聞

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茶説

誕生日に思う

牧念人 悠々

 誕生日にスポーツ用品のミズノの社長、水野 正人さんからお祝いのカードをいただく。今年は一ヶ月も前に届いたカードにはつぎのようにあった。
 「西暦2000年の誕生日おめでとうございます。2000年は21世紀ヘの助走路です。つぎの世紀を想うとき、司馬遼太郎さんが小学生に対して書かれた文章に心打たれます。ご存知と想いますが、あまりにもすばらしいメッセージなのでご紹介します。心身の健康に留意され明るく心豊かな21世紀にしましょう」

 司馬さんの「21世紀に生きる君たちへ」へのメッセージがそえられてあった。このメッセージがいい。司馬さんは訴える。
−自然によって生かされてきた私たちは、自然という「不変のもの」を基準に置いて人間のことを考えてみよう。そして自分に厳しく相手にやさしいという自己を確立してほしい。またすなおで賢い自己も求めよう。「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」とその根は同根のものを訓練して身につけてほしい−
 8月31日で75歳になる私は120歳まで生きるつもりである。21世紀も半ば近くまで生きることになる。司馬さんのメッセージをかみしめたい。
 20歳の時その人がどんな過ごし方をしたかで、人の人生が決まるといわれる。ところで、私の場合、劇的である。人生の岐路に立たされた。昭和20年8月31日、20歳。陸軍士官学校在学中であった。6月から長期演習の名目で長野県北佐久郡本牧村周辺に疎開した。協和村の国民学校で起居、訓練に励んだ。8月15日の敗戦により30日、学校本部のある望月村の高等女学校校庭で59期生の復員式。31日には同期生1327人(地上兵科)とともに復員列車で信越線田中駅をあとにして母親のいる愛知県岡崎市へ復員した。丁度20歳になったその日である。岡崎の町は空襲で一面焼け野原であった。母親の家は焼けずに残っていた。
 死を考えた日々であった。陸士卒業は10月であった。第一線の小隊長としてぶざまな死に方はしたくないと思い、修行したつもりである。だから私は同じ思いをした同期生が懐かしく、心の友として付き合っているのである。
 復員直後は呆然自失無為に過ごした。寺にこもり、宗教書をよんだこともある。21年1月岡崎にできたばかりの新聞社にはいり、マスコミの世界に足を踏み入れた。食うためであったが、これが一生の仕事になってしまった。幸い事件に恵まれ、よい先輩に育てられ今日まできた。がむしゃらにいきてきた。
 あと45年、おごることなく、謙虚に生きたいと想う。

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